2024/8/3

人類学に対するラカンの言及。ローマ講演より。

「なんぴとも法を知らないとみなされない、という成句は、かの「法典Code de Justice」からユーモアでもって引き写されたものであるけれども、それでもやはり、我々の経験がその上に立っている真理、そして我々の経験が確認することになる真理を、表現してもいる。実際、 人間の法とはすなわちランガージュの法なのだから、なんぴともこの法を知らないはずはない。ランガージュが人間の法になったのは、はじめての贈与を、はじめての感謝の言葉が統轄して以来のことである。人間が実のない贈与を伴った偽りの言葉というものを怖れるようになるには、海からやって来てまた去っていったおぞましきダナオイの出現を待たねばならなかったとしても。そのような時が来るまでは、一種の象徴的交易という結び目によって、共同体としての島々をつなぎ合わせていた太平洋のアルゴ船員たちにとっては、これらの贈与、あるいは贈与という行為と贈与物、贈与が記号へと高められること、そしてそれらを作ることすらが、話すこと自体とないまぜになっているので、彼らはこれらの贈与のことを、そのまま話を意味する名称で呼んでいるほどである。(原注)」

原注:「とりわけ、モーリス・レーナルトの『ド・カモ』9、10章を参照のこと。」

このラカンの記述は少し細かく見てみる価値がある。現代法の世界にも、いわゆる「法の不知はこれを許さずIgnorantia juris neminem excusat」という原則が存在する。法を知らなかったからといって、そこに故意の不在や罰則免除は認められないということである。これはどうやらローマ法の時代からあるようである。したがってCode de Justiceと大文字で言われているのは『ユスティニアヌス法典(Codex Justinianus)』 のことであろう。それをラカンは、「法」を「ランガージュ」と読み換えることによって、ランガージュを知らないはずがない、したがって「法の不知はこれを許さず」は真理なのである、と論じていく。もっとも、ローマ法においては、たとえ本当に法を知らないことがあっても罰則を逃れられないという意味であったのに対し、ラカンにおいては、法を知らないということはあり得ないのだから罰則(?)を逃れられないとなっている点で、ややロジックが組み換えられているのではないか、というツッコミはできるかもしれない。

「ダナオイ」とは新宮一成の訳注によれば、「アルゴス王ダナオスの臣民、もしくは、ギリシャ人一般」のことである。ギリシア神話において、ダナオスの娘たちは結婚式の夜に花婿を殺したことで、篩(ふるい)の中に水を入れなければならないという終わることのない罰を受けたとされている。またウェルギリウス『アエネーイス』の中には、トロイの木馬をめぐってラオコオンの「考えられるか、ダナイ人の贈り物に計略がないなどと。〔…〕これがなんであろうと、わたしはダナイ人を恐れる。たとえ贈り物を携えてきても」(『アエネーイス』第2歌42-49行、岡道男・高橋宏幸訳、京都大学学術出版会、2001年)というセリフがある。たしかにこの内容はラカンの記述に合致している。そこでは贈与、さらには贈与にともなうある種の恐怖(虚偽や負債感に関わるか)が示されている。そしてその贈与のモチーフが直後に「太平洋のアルゴ船員たち」へと繋げられているのだが、これは明らかにマリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者Argonauts〔アルゴノーツ〕 of the Western Pacific』のことである。Argonauts は、ギリシア神話のアルゴ船に乗った英雄たちを指すアルゴナウタイに由来する(Wikipedia)。ラカンはマリノフスキーの贈与論=交換論と、元ネタであるギリシア神話における贈与のモチーフを結びつけている。

ちなみに、ダナオスの娘たちについては『エクリ』所収の「犯罪学における精神分析の機能にむける理論的序説」(1950)にもソクラテスについて語る中で言及している。

「ここでソクラテスは、奴隷制の現実がその限界をなしていたあの<古代都市>の自由人のなかに結実している<主人>のうぬぼれを論破しています。これは<正義>の絶対を承認しながら<対話者>の産婆術の名のもとにランガージュの唯一の効能によってそのなかに支えられている<知恵>ある自由人に至る形式です。こうしてソクラテスは、権力への情熱についてちょうどダナイスたちの樽のように底のない弁護術を自分では気づきながら、あるいは<都市>の不正のなかでの彼自身の政治的存在の法を認めながら、それを個人のための改良と集団のための見せしめという懲罰の意味が表現されている永遠の神話の前に屈服させたのです。一方、彼自身は同じ普遍性の名において彼自身の運命を受け入れ、彼という人間を生んだ<都市>のばかげた評決に前もって従いました。」(E 128、エクリ1p. 175)

これは『ゴルギアス』の議論であるらしい(未確認)。一見するとなんの関係があるのかと思われるが、というかダナイス(ダナオイ)の使われ方が先ほどとは異なるが、主題とされていることはかなり近い。つまりソクラテスはアテナイの法と自身に下された判決(=罰)の馬鹿馬鹿しさを強烈に批判しながらも、最終的にはその法に従って毒を飲み死んだ(ソクラテスの弁明・クリトン)。ここにも「法の不知はこれを許さず」が(厳密な意味は違うように思われるが、)響いている。なお、ラカンのマリノフスキーに関する明示的な言及が現れるほとんど唯一のテクストがこの「犯罪学における精神分析の機能にむける理論的序説」である(!)。そこでは『未開社会における犯罪と慣習』が言及されている。

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“2024/8/3”. への2件のフィードバック

  1. 2024/8/5 – shanazawa.com

    […] ラカンによれば、精神分析家の目的というのは、患者=「自分を主であると思っている奴隷たち」に「君主の自由を回復させてやること」である。そしてその(君)主の代表例として、ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』のキャラクター、ハンプティ・ダンプティが挙げられている。ラカンは、ハンプティ・ダンプティを「シニフィアンの主maitre du signifiant」であると規定する。上の引用の前半部分がソクラテスの産婆術に関するものであることは、一昨日の記事(https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/03/2024-8-3/)で紹介した「犯罪学における精神分析の機能にむける理論的序説」(1950, 『エクリ』所収)の一節にも関わりそうである。また、ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法のラカンによる読み替えという問題も考慮に入れる必要がある。とはいえ、ここではハンプティ・ダンプティに焦点を絞ろう。 […]

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  2. 2024/9/12 – shanazawa.com

    […] 松本はさらにオイディプス王とアンティゴネーの運命が、「不毛性」=「不妊性」という<法>のもとに従属している、と語る。そこで、ラカンが「ローマ講演」でも引いていた、ユスティリアヌス法典の「法は『知らなかった』では済まされない」という慣用句が、以上のように解されるべきだとされる。ねずみ男は自らの運命=<法>を(少なくとも意識的には)知らなかったが、しかしそれでも運命に従属していたのである。「法は『知らなかった』では済まされない」については、以前少し論じた。cf. https://shanazawa4.wordpress.com/2024/08/03/2024-8-3/ […]

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