犬塚堯の「言語世界の神話的行動」(現代詩文庫82、p. 116-23)はちょっとすごすぎる文章だと思うのだけど、どういう文脈で書かれたものなのか分からず、調べても出て来ず。『犬塚堯全詩集』(思潮社)を買うしかないと決意する(東大の図書館に蔵書がない。どういうことなのか)。
「貝のつぶやきともいうべき幼児の言語力」(p. 116)
ぱくぱくぱく…
犬塚の詩は評論でも言われるように、現代詩の範疇の外にある。1924年に中国の長春で生まれる。いわゆる戦後詩にただよう悲壮感のようなものがない。脱文脈的というか、浮世離れした優雅さと気迫がある。仙人という感じ。外部から到来する言葉で構成された、自我のない文章。好きだなと思うのは、真剣な言葉が続く中にぽろっといろんな食材が混ざり込んでくるところ。テーブルにクロスを引いて、果物だったり鍋だったり。「食」についての上品さがある。
試しに一節引用してみようか。↓
「言語世界の神話的行動」
語群の往来
言語を覚えてゆく能力の鋭さは、言語を忘れてゆくときのもろさと釣合っている。単純な生活に集中される本能の確かさによって最初の幾つかの言語がマークされ、それは名詞であれ、動詞であれ、助詞であれ、その配列とともに瞬時に行動の形態を捉えてしまう。
知覚や印象が、記憶の集積を巧みに、瞬時につなぎあわせて夢のストーリーを作り出すように、言語はそれに対応した経験の中から全く似通った衝動を呼び起こして新たな行動と決意に結びつけることが可能だ。
たとえば、形容詞の次に名詞があろうと、名詞の次に形容詞があろうと、主語と述語の順列、ときには主語の省略如何にもかかわらず、なにひとつこの場で変ったことは起こらない。われわれが考えているほどには、用語の厳格さは思考や生活を厳しくしてはいないのだ。
貝のつぶやきともいうべき幼児の言語力は実は、予感のように満ちてくる生活と未来の大きさを見渡していると思われる。その太陽をも叩き落とす暴力の秘められた快感や、夜と昼の絶え間ないリズムへの調和は、すでにその知能にとっては、言語全体の出現ともいうべきである。彼らはそれを見ている、いや所有している。その姿で幼児が眼を見開くとき僕には獅子の凝視のように思わ れる。
言語の一群が共にやってきたり、共に去っていったりすることは既に経験で知られている。失語症は、これらをすべて失い、ある日、すべてを一挙にとり戻す。とくに際立ってもいない言葉の一つが狂ったように口の中で騒ぎ出す。また、親しかった言葉の幾つかが隊列を離れたりする。
新聞が最近報道していた実話だが、一人の娘が記憶の一切を失ったにもかかわらず、感情の脈絡、道徳や常識の体系、習慣に対応する態度、日本語の文法の殆どが彼女に残った。彼女には普通名詞や抽象名詞が残って固有名詞の殆どがなくなった。とくに興味深いのは、最も彼女に身近く、血肉の一部でさえあった両親や友人の名が忘れられ、おまけに自分の名前さえ想起できなくなったことである
今日はここまで。
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