2024/7/30

昨日あまり眠れず夜中何度か起きて、今日は調子が悪いので、研究は早めに切り上げる。でもちょっとは進めた。それでOK。ちょっとだけでいいから毎日進んでる。フランス語のリスニング30分やって、700字くらい修論加筆して、それで大丈夫。書き始めるとそれなりに乗ってくるから無理したくなるけど、ストップをかける。昼食後、バイトまでの時間でちょっとだけ調べ物だけやる。自分の気付かない心身の疲れというものがある。

その代わりFaheyのギター練習して詩を一つ書いた。カントリー・ブルースの弾き方に結構慣れてきた。オープンGで弾ける曲のレパートリーを増やしていく。それでずっと繋げて弾き続けられるようにするのが目標。しんどい時というのは、とにかく時間との戦い。1分1時間1日をなんとかやり過ごすための術をいかにして身につけるか。30分くらいで1巡する曲目を習得できればだいぶ楽になる。いつか路上で延々弾くのが目標(自分がそんなふうに考えるようになるなんて)。

亀のように進む。

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「はじめに言葉ありき」について。ラカンはセミネール1巻でランガージュとパロールの区別を説明するために、ヨハネ福音書の冒頭「はじめに言葉ありき」という文言を用いている。要するに、はじめにランガージュ=ゲームの初期設定があり、そのもとで次いで行為としてのパロールが可能になる、ということである。ラカンはローマ講演の中でも、ゲーテ『ファウスト』で用いられる「はじめに業ありき」(ゲーテがヨハネ福音書をもじって作った言葉)を挙げて、これをやはりはじめにあったのは言葉である、と再修正を行なっている。この議論で問題になっているのは、ランガージュ(構造)とパロール(行為)の先行関係である。

ところで先日、ラカンの全仕事についてかなり網羅的にまとめている素晴らしい本、M・マリーニ『ラカン』を読んでいたら、先日Seuilから発売されたセミネール15巻『精神分析的行為』の部分に、次のような記述があった。

「ラカンは——A・コイレにしたがって——『初めに<言葉>ありき』という聖ヨハネの言葉と、『初めに活動あり』というゲーテの言葉の間には矛盾がないと指摘しているが、上記の『行為』の定義はここからも確認できる。」(マリーニ、p. 342)

どうやらこのセミネールの年(1967-8)になると、ヨハネの言葉とゲーテの言葉との間には矛盾がないという理解に到達しているようである。ただ気になるのは、そのことがアレクサンドル・コイレにしたがったものであるというマリーニの記述である。ネットでいろいろ検索してみると、該当部分のセミネールの本文(海賊版か?)があった。たしかにコイレ云々の話と、「はじめに言葉ありき」という文言が見出された(詳しい議論は未確認)。さらにその注にはコイレの1957年の著作『閉じた世界から無限宇宙へ』のある記述に基づいた議論であることが注釈されていた。日本語訳での当該部分を見つけることができたので引用を貼っておく。いまいち議論のつながりはわからない。

「コスモスが解体され、地球がその中心的でしたがって独一的な(決して特権的ではないとはいえ)地位を喪失した結果、不可避的に人間は創造の神的宇宙的なドラマ(それまで人間はこのドラマの中で中心人物と舞台の両者を兼ねていた)における独一的で特権的な地位を喪失することになったのであるとしばしば——かつ、言うまでもなく正当にも——主張されてきた。この展開の終局にはパスカルの『自由思想家〔リベルタン〕』の沈黙した恐るべき世界が、近代の科学的な哲学の無意味な世界が見出される。そしてこの終局にはニヒリズムと絶望が見出される。」(コイレ『閉じた世界から無限宇宙へ』横山訳、p. 34)

コイレはフランスにおけるヘーゲルの紹介者であると同時にラカンにとってはレヴィ=ストロースとの仲介人でもある哲学者・科学史家である。ローマ講演ではガリレオの発見した振り子の等時性についてのコイレの論文がラカンによって参照されている。

さらに、ゲーテの「はじめに業〔行為・活動〕ありき」に関してはフロイトも述べていたことがわかった。ラカンの多様な参照先というのは、よくよく調べるとフロイトを通してのことであったことがわかることが度々ある。ブリハット・アーラニヤカ・ウパニシャッドについても然り。フロイトの記述を引こう。「トーテムとタブー」の一番最後の段落である。

「われわれは、未開人について判断をくだすとき、神経症患者との類似にあまり影響されてはならない。両者のあいだの差異をも考慮に入れなければならない。両者、つまり未開人にしても神経症患者にしても、思考と行為のあいだには、われわれが行なうようなはっきりした区別が存在しないことは確かである。 しかし、神経症患者はなによりも行動が抑制されていて、彼にあっては、思考は完全に行動にとってかわるものである。未開人は抑制されていることはなく、思考はそのまま行為におきかえられる。すなわち、未開人にとっては、行動はいわばむしろ思考のかわりをするものである。だから、次の断定が絶対確実だとみずから保証しないにしても、われわれが論じているこの場合には、おそらくそう考えてもよいと私は思う、すなわち はじめ 「太初に行いありき」と。」(フロイト著作集3、p. 281)

「トーテムとタブー」はフルで読み通したことはない。だがここで神経症者と未開人の思考と行為についてフロイトが語っているのを見ると、ラカンと人類学の関係を捉えるためにはやはりフロイトの人類学的研究をしっかり考慮に入れる必要があることがうかがえる。また、余談であるが、ラカンが繰り返し引き合いに出し愛読するフロイトの記述は、たいてい註だったり節や章の末尾に置かれる脱線的で謎めいた文句であることが多い。そもそも、フロイト(だけではないと思うが)は途中まで綿密に議論を組み立てていき、最後の方にまとめて形而上学的・哲学的な問題を謎めかせて論文を終える、ということが少なくない。

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