2024/7/21

レヴィ=ストロース「序文」に出てくる「グループ語un terme de groupe」の、トゥルベツコイ『音韻論の基礎』における元の説明を探して、二箇所見つけることができた。そこを詰めているところだが、もしかすると本論の議論に関係しないため削除することになるかもしれないので、こちらにも保存しておく。まず「序文」からの引用。

「つまりマナは、内容のない形式、もしくはより正確には純粋の象徴であって、それゆえにいかなる象徴的内容をも帯びることができるのではないだろうか。すべての宇宙論がつくりあげる象徴の体系の中で、これは単にゼロの象徴的価値を示すものでしかなかろう。つまり、すでにシニフィエを担っているものに対する追加的な象徴的内容の必要性を明示しながら、しかし、それがまだ処分可能な蓄えの一部をなしており、かつすでに音韻学者のいわゆるグループ語ではないという条件で、一つのなんらかの価値でありうるような記号。」(p. 42)

次いで僕の文章。

「二つ目の引用では、レヴィ=ストロースは「グループ語un terme de groupe」という音韻論の用語を用いてマナの特性を説明している。この「グループ語」は、「序文」の第二節後半においても、「任意変体」、「連合変体」、「中和」といった言語学用語とともに列挙されていた(こちらの部分では「termes de groupe」)。これらの用語はレヴィ=ストロース自身が註で示しているように、主にトゥルベツコイ『音韻論の原理』の中で論じられたものである。『音韻論の原理』はトゥルベツコイの死後1939年にドイツ語で刊行されたが、1949年にフランス語に翻訳され、レヴィ=ストロースはこの仏語訳を参照したようである。仏語訳の具体的な参照先を確認したところ、「任意変体variantes facultatives」、「連合変体variantes combinatoires」、「中和neutralisation」は確認できたものの、筆者が調べた限りでは、「un terme de groupe」や「termes de groupe」というそのままの語句や、それを主題的に論じた節を見出すことはできなかった。だが、この「グループ語」こそが「ゼロの象徴的価値」についてのレヴィ=ストロースの比較対象になっているため、むしろこの概念の内実を明らかにすることが我々の目的には不可欠である。検索の範囲をやや緩めてみると、「les termes d’un groupe」という書かれ方で、内容的にも関連している可能性が高い記述があった。その議論を確認することで、再度レヴィ=ストロースの記述を隅々まで解釈することを試みる。」

「筆者の調査によれば、『音韻論の原理』の仏語訳で「les termes d’un groupe」という表現が登場する部分は二箇所ある。一箇所目は弁別論第2章第1節「音素と変種の区別」で論じられる、音素の弁別に関する四つの規則のうちの第四のものである。ちなみに、規則Ⅰおよび規則Ⅲにおいて「任意変体〔随意的変種〕variantes facultatives」と「連合変体〔結合的変種〕variantes combinatoires」が登場する。」

次に『音韻論の基礎』からの引用。

「規則Ⅳ 2つの音が、その他の点で規則Ⅲの諸条件に適合していても、当該言語において、その2つの音の1つが単独でも現われるような位置に並んで立ち得る場合には,すなわち、そのような位置に1つの音結合の項les termes d’un groupe phoniqueとして立ち得る場合には、この2つの音を同一音素の変種と解釈することは出来ない。」(長嶋訳p. 56)

次いで僕の文章。ここで止まってしまう。

「この一つ前の規則Ⅲは「或る言語の、聴覚上あるいは調音上互いに類似する2つの音が決して同一の音環境に現れることがない場合、それらは同一の音素の結合的変種として解釈される」(p. 55)というものであった。例えば朝鮮語では、/r/の音は語末に現れず、反対に/l/は語末にのみ生じる。この時、同じ流音として類似している/r/と/l/は結合的変種と見做される。だが、例えば英語における/r/と/ə/はそれぞれ、/r/が母音の前にのみ立つことができ、/ə/は反対に母音の前にだけは立つことができないという関係にあり、尚且つこの二つは類似した音でありながら、同一音素の結合的変種とは見做され得ないとされる。なぜなら、」

トゥルベツコイの説明をうまく理解できないため、この先を書くことができない。トゥルベツコイの説明を引用しよう。

「しかしこのような解釈〔/r/と/ə/が結合的変種だとする解釈〕は、profession(発音:prəfešn)のような単語においてrとəが並んで立ち、別の諸単語においてこれと同じ音環境にəが単独で現れる(たとえば、perfection——発音:pəfekšn)ことによって不可能となる。」(長嶋訳p. 56)

pとfに挟まれた部分において、一方ではrəというようにrとəが連続して並んでおり、他方ではəが単独で占めている。これは確かに規則Ⅳが指示する条件を満たしている。だが、なぜこの条件が満たされると規則Ⅲに当てはまらないことになるのだろうか?しかも、このことこそが「すなわち、そのような位置に1つの音結合の項les termes d’un groupe phoniqueとして立ち得る場合には」と言い換えられていることを見ても、「グループ語un terme de groupe」の内実を明らかにするためにはトゥルベツコイのこの記述を理解しなければならない。

「1つの音結合の項les termes d’un groupe phonique」とはもっと直訳すれば、「一つの音的グループの諸項」である。つまり/r/と/ə/が、一つの音的グループの二つの項だということだと思われる。そしてなぜそう言えるのかというと、「rə」と並んで立つ場所に「ə」が単独で立ち得るからとされる。「一つの音的グループun groupe phonique」とは何なのか。

とりあえずこの問題は保留して、明日以降、二つ目の「les termes d’un groupe」が見出される箇所について書けることを書いてしまおう。「序文」の議論自体はいろんな人が論じているはずなので、先行研究調べを並行させる。また、浅田彰『構造と力』の文庫版p. 198の注には、「序文」の議論についてドゥルーズが「構造主義はなぜそう呼ばれるか」(『ドゥルーズ・コレクション 1: 哲学 (河出文庫 ト 6-17)』)において、デリダが「人間科学の言説における構造、記号、遊び」(『エクリチュールと差異〈改訳版〉』)において触れているそうなのでそれも確認する。

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