東大の図書館に収蔵されていなかったオットー・フェニヘルの『精神分析技法の基本問題』(安岡誉訳)が届いていた。さっそく開いてみると、想定通り、ラカンが指摘していた箇所を発見できた。p. 70「直接的な意味では、分析家は、もっぱら自我に働きかける。我々にとっては、自我の定義について考えるだけで良い。自我が存在するとすぐに、自我を通じて、精神に対する環境の影響の全てが生じる。そして、言葉の意味の理解は、特に自我の関心である」。ラカンはS1邦訳上巻p. 25でフェニヘル(フェニケル)のこの最後の一文「言葉の意味の理解は、特に自我の関心である」を挙げて「こうしてフェニケルは最初の一行から問題の核心に迫っています。すべてはそこにあるのです。そういう意味でのエゴが、いわゆる自我からはみだしているかどうかが重要なのです」と語る。「エゴ」と「自我」は普通同一のものの二つの名称であるが、ラカンはこの二つを区別しているようだ。さらに「もしこの様な機能がエゴの機能の一つであるとしたら、フェニケルがその後展開していることはすべて全く理解できませんし、実際彼はその点を主張し続けてはいません。結局それはフェニケルの口が滑っただけのことでした」(p. 25)と述べて、フェニケルは結局核心を掠っただけで終わってしまったのだとされる。さらにラカンは「彼は結局、イドとエゴは全く同じものだと主張しています」(p. 25)と述べるが、これはフェニケルの「しかしながら、人は、それでも我々が解釈でイドに働きかけている、という見方を表明しうるかもしれない。というのは、自我とイドとの間には(逆備給によって防壁が作られている箇所は別であるが)明確な境界がないからである」(『基本問題』p. 71)という部分を指していると思われる。フェニケルはアンナ・フロイトの『自我と防衛』での議論と同じく、分析家は自我を通してのみ働きかけることが可能であって、超自我やイドの分析も、すべてまずは自我を窓口にして行われるという立場を踏襲している。そしてフェニケルによれば、外界環境との関わりを担っている自我が発達する前には、その役割を未分化なイド自身が原始的に担っていたのであり、その意味でイドと自我は区別されないと考えることもできる、というわけである。したがって、ラカンが区別する「エゴl’ego」と「自我moi」のうち、フェニケルが自我と呼んでいるのはラカンにおいては「エゴ」ということになるだろう。では、ラカンが「自我」と呼んでいるところのものとは何のことなのだろうか?このことについてラカンはきわめて重要に思える発言をしている。彼はフェニケルが口を滑らせて言ったこと(まさに錯誤行為的である)、つまり「それを通して主体が語の意味を把握する機能」に着目する。「エゴとは何でしょう。主体は何の中に捉えられているのでしょう。それは語の意味を越えた全く別のもの、つまりランガージュです。ランガージュの役割は主体の歴史における基本的な形成者です」(S1邦訳上巻p. 26)。ここでラカンは「エゴ」と言ってしまっているが、これはフェニヘルが口を滑らせた時に言及した「エゴ」のことであり、つまりフェニヘルが基本的に考えている「エゴ」とは異なる、ラカンがいうところの「自我」と考えればよいように思える。「自我=ランガージュ」というのは、無意識がランガージュであるというラカンの基本テーゼに馴染んでいる我々にとっては理解に苦しむ。が、これを整合的に把握することが重要である。
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