通常、本になるようなものには校正が施されていて、誤字脱字や表現の違和、正確でない情報は検閲され、修正を受ける。だから著者の言い間違いやド忘れによって代理的に浮上してきたものは正しい表現や情報に直されてしまう。情報を伝えるための一般的な本においてはそれで良いと思うが、詩ではそのようなことは無いのだろう。詩を校正するということもあるのだろうか。ただ、以前テレビで見た番組では、すごく優秀な校正者のドキュメンタリーで、その人は小説の校正を行なっていた。小説内に出てくる、一般的知識のようなものを実際に調べて、それが正しいかどうかを確認する。小説の校正というのはどこまで必要なのか。そこが校正者の難しいところだ、という主題でもある。例えば、デリダの本は校正を受けたのだろうか?
ラカンの「シニフィカシオン」概念について論文を書くための資料集め。ラカンが「signification」という言葉を使った断片的記述を網羅的に収集し、その使い方を何パターンかに分類する。さらに先行研究における「シニフィカシオン」の理解をこれも分類し、これまでに指摘されてこなかった「シニフィカシオン」の用例を提示する。そのことによって、ラカンのシニフィカシオン概念をより重層的に把握することを可能にする。「シニフィアン」概念については繰り返し論じられてきたが、「シニフィカシオン」についてはそうでもない。だがミレールが来日した際のシンポジウムで明言していたように、50年代のラカンが探求していたのは「意味」の問題であった。とはいえ、こういう研究の仕方が査読誌に受け入れられるのか分からない。不安はある。そもそも多大な時間をかけた結果大した結果が得られないかもしれない。でもこれが上手くいけば、ほかにも応用できる。「ディスクール」、「前意識」など。
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